素材:角材・黒鉛・和紙
『見る』といる行為はどういうものなのだろうか。私たちは日常、意識することなく目を通してものを知覚しているのだが、その中の数え切れない知覚対象(情報)から、その都度必要とされるものを選んで知覚している。ということは、『見る』という行為は意識化された行為でもあるのだ。意識化されたその行為には、それにまつわる意味が付随している。私たちはものを見るときに、その付随した意味とその知覚対象が持つ意味とを殆ど同時に意識して知覚していることになる。たとえば、机の上に探し求めるペンを見つけたとき、意識の中では意識に付随したペンというものの意味と対象そのものが持つペンという意味(特性)とが一致している。
日常生活の中では、普通この二つの関係は破綻なくつながっている。しかし時に、この関係が不安定になり遮断されてしまうことがある。芸術作品を『見る』という行為がそれである。中でも現代美術と呼ばれる作品を前にしたときに、安定した秩序を持つ意味世界から突然放り出され、方向を見失い、途方に暮れてしまったりする。が、この瞬間にこそ、『見る』という行為が素のままで強く意識化されるのだ。
こういう場面では、『見る』という行為は積極的になされなければならない。そこでは、見るもの(私)が主体性を持って見えるもの(作品)に関わらなければならない。そうしなければ作品は何も語ろうとはしないのだ。しかし、見るものと見えるものとの関係性(距離)が深くなればなるほど、作品はその見られるもの(意味)を語り出す。この見られるものは作品自身があらかじめ持っていたものでも、作者が作品を通して言おうとしているものでもない。それは、見るものが作品と主体的に関わることによって生み出されたもので、見るもの自身(自我)が投影されたものでもあるのだ。
投稿者: 文化生活部 日時: 2013年9月13日 21:58 |
9月13日夕刊の生活彩々「とんがりエンタ」で、景色にとけ込む荒縄アートを紹介しました。現代美術家の山本晴康さんが、アトリエの建物を題材に仕上げたインスタレーション作品です。つながり、領域、空間を見つめるのがポイント。
素材:角材・荒縄・石
「閾」とは域areaを表す概念ではなく、境borderを表す概念です。こちらとあちら、内と外との境界を意味しています。内と外はそれぞれ領域を持ちますが、その境界は領域を持ちません。よって、閾は概念として存在するもので、内でもあり、また外でもあるのです。
素材:和紙・染料
Water Traceは一方で水の運動、紙の繊維(もの性)との関わりという非絵画的性格を持ちながら、和紙上のトレースとその繊維のほぐれが絵画上の線とマチエールに対応するように、あくまでも絵画による意識から作られたものです。別の言い方をすれば、水と和紙の出会いによって生まれた偶然を、意識的に絵画へと組み替えていく作業であると言うことができます。
ところで、偶然を絵画化するとか、絵画に運動性、物質性を持ちこむとかいった方法論は、特別新しいものではありません。絵画の構造からすれば、Water Traceは旧套的な空間に従っています。たた、Water Traceでは、運動性、物質性、視覚性という三要素を一平面上で実現していることと、和紙への作家の眼差しを強く意識させてくれる点が大きな魅力となっています。
あるものがあって あることによって 関係性が生まれ
ものが広がり 事象が生まれる
そして 組み込まれた事象の中で 関係性が逼塞していく
しかし 絶えず生みだされる関係性によって 事象は揺らぎ
ものは 別の事象へと 編み換えられていく
Hruyasu Yamamoto " WATER TRACE '89 "
「Art Speaks 誌」New York ,March 16,1989
Tony Cavanaugh
While the local success of “Japan, Inc.,” a Japanese economics manual in comic-book form, demonstrates the lively interest in cultural exchange among the New York business community, the art scene was lagging slightly behind before the advent, a year ago, of Open House Gallery, NY/Japan Art Exchange Center, 504 La Guardia Place.
The gallery, which also has an exhibition space in Japan and runs an art exchange program between the two countries, introduces new exhibitions weekly. This month four splendid solo shows spotlight Japanese artists.
Haruyasu Yamamoto “ Water Trace ’89 ”
To achieve a “unity of traditional sprit and modern concept” is the stated aim of Haruyasu Yamamoto who succeeds admirably in the second show, from March 18 through 23.
Haruyasu Yamamoto calls his show “Water Trace ’89” because he created his dedicate linear forms by “drawing” with dripped water or paper pulp on absorbent Japanese paper treated with black dyes. Enclosed within rectangular white borders, the graceful tracery of water trails creates a mysterious terrain to which Yamamoto adds tiny black-on-black rectangles. Distinguishable from the densely dyed absorbent field by their slightly glossier surfaces, these geometrical areas suggest a spiritual order beneath natural elements.
Haruyasu Yamamoto’s work comments on the important role that paper plays in Japanese life, where it has many uses, both functional and aesthetic. The power of his pieces from his discovery of a contemporary style that makes a new statement with traditional materials. Paper, for Yamamoto, is both medium and message.
(訳)
日本の(日本の企業)のコミック(漫画)の経済入門書のような局所的成功は、一方でニューヨークのビジネス社会における文化交流に対する活発な興味を証明していることでもあるのだが、1年前にオープン・ハウス・ギャラリー(ニューヨーク・アート・ジャパン・エクスチェンジ・センター)がラ・ガ―ディア通りにオープンする前までは、ニュ―ヨークのアートシーンはわずかにゆっくりと後
していたのである。
このギャラリーは日本においても展覧会を開くギャラリーを持ち、二つの国(アメリカと日本)の間の芸術交流を続けている。また、毎週、新しい展覧会を開催している。今週は四つの素晴らしい個展を通じて日本のアーティストを紹介している。
山本晴康 “ Water Trace 89 ” 3月18日から23日にかけて開かれる個展について、山本晴康は狙い通りに、日本の伝統的な精神とモダンの概念の統一に見事に成功している。
彼はこの個展を“ウォーター・トレース”と名付けている。“ウォーター・トレース”とは黒く染められた吸水性に富む和紙の上で、飛ばされた水と和紙の繊維によって生み出される繊細なかたちのドローイングであり創造である。方形の白い境界(縁)に囲まれて、ゴチック建築の窓や壁の周囲を飾る透かし彫りを思わせる優美な水の痕跡は、山本が黒い和紙の上に重ねておいた黒い小さな方形によって、地形のような不思議な光景を作り上げる。光沢のある表面によって濃く染められた吸収性のあるフィールドから区別できるその幾何学的な面積(方形)は自然の要素の下にある精神的な秩序を暗示している。
山本の作品は、日本人の生活の中で機能的にも、美術的にも多くの用途に用いられている紙の重要な役割について述べている。彼の一つ一つの作品に見られる力、それは伝統的な素材の扱いについての新しい意見の表明であり、それが現代的な表現への発見と向かわせるのである。
紙は山本にとって、作品素材であるとともにメッセージである。
(日本語訳:山本晴康)
(注)和紙:雲肌和紙 白い境界:鳥の子和紙 方形:方形に切り取った雁皮紙
『間-想』を巡る断章
日差しがとても強く、肌が焼かれていくような日であった。陽は西に傾きだしたのに、1日の余熱に、体の芯まで溶け出してしまいそうな頃、私の足は、ある大寺の塔頭の唐門へと向かっていた。参道に落ちる杉の大木に縁取られた枝影は、白砂利の上にはっきりした輪郭を刻みながら、私をその先の暗がりへと導くのだった。
参堂を右に折れると、雑木林に囲まれた行き止まりの狭い門前道が続いている。日が遮られ、それまで強烈な日差しに慣れていた私は、急に帳が落ちたような、感覚の落差を感じた。温度差さえも錯覚する。頬にひんやりしたものを感じた。茅葺きの風雅な作りの唐門の前に私は立っていたのだ。
体を折るようにして、潜り抜ける。そこは、緑色ままの世界だった。頭上を覆う楓樹に遮られた光が、若苔に、笹葉に、敷石に緩やかに落ち、散乱する。色が感覚を震わせて音を奏でた。余韻を引きずりながら、旧利休邸を移築した書院へと上がった。簡素な廊下を通り、奥の間へと進む。不意に、形容しがたい光景が立ち現れ、立ち尽くすのであった。
薄暗い方丈内部から、光溢れる南庭へと、柱と軒によって切り取られた光景は、縁側に敷かれた緋色の毛氈によって強められ、感覚を通して連続する。感覚に包まれるというのは、このことを言うのであろう。唐門を潜り抜けたときの感覚が重複され、鮮やかさを増して私を刺した。
枯山水の南庭は、静かであった。地苔に覆われた中に灯篭がひとつ、左右に楓樹を散らし、背景は竹を交えた雑木林、ひとつ緑でも異なる緑が乱舞し、ひとつになる。理性を超えて自然となる世界がここにあった。
これは、愉悦の庭であり、瞑想の庭である。庭へと向かう私の視線は、毛氈、灯篭、楓樹を巡り、緑色の背景に包み込まれ、私へと立ち戻る。すべて感覚の喜びは、内に沸くもので、外に向かい、また内に戻るのである。その繰り返し、それを瞑想と呼ぶのであろうか。
大徳寺塔頭 高桐院にて