『見る』といる行為はどういうものなのだろうか。私たちは日常、意識することなく目を通してものを知覚しているのだが、その中の数え切れない知覚対象(情報)から、その都度必要とされるものを選んで知覚している。ということは、『見る』という行為は意識化された行為でもあるのだ。意識化されたその行為には、それにまつわる意味が付随している。私たちはものを見るときに、その付随した意味とその知覚対象が持つ意味とを殆ど同時に意識して知覚していることになる。たとえば、机の上に探し求めるペンを見つけたとき、意識の中では意識に付随したペンというものの意味と対象そのものが持つペンという意味(特性)とが一致している。
日常生活の中では、普通この二つの関係は破綻なくつながっている。しかし時に、この関係が不安定になり遮断されてしまうことがある。芸術作品を『見る』という行為がそれである。中でも現代美術と呼ばれる作品を前にしたときに、安定した秩序を持つ意味世界から突然放り出され、方向を見失い、途方に暮れてしまったりする。が、この瞬間にこそ、『見る』という行為が素のままで強く意識化されるのだ。
こういう場面では、『見る』という行為は積極的になされなければならない。そこでは、見るもの(私)が主体性を持って見えるもの(作品)に関わらなければならない。そうしなければ作品は何も語ろうとはしないのだ。しかし、見るものと見えるものとの関係性(距離)が深くなればなるほど、作品はその見られるもの(意味)を語り出す。この見られるものは作品自身があらかじめ持っていたものでも、作者が作品を通して言おうとしているものでもない。それは、見るものが作品と主体的に関わることによって生み出されたもので、見るもの自身(自我)が投影されたものでもあるのだ。
作品を『見る』という行為は、一つの円環をなす行為である。
Object, Image and Observer
For well over a decade Haruyasu Yamamoto has produced art works that combine a very high degree of craftsmanship, reflecting upon traditional Japanese skills, with intellectual acumen.
In romanized English (romaji) the title of his present works, which he has been producing since 2000, reads as "mieru mono (object) to mirarerumono (image) soshite mirumono (observer) tosite" . "mirumono " refers to "kansho suruhito" or observer, or viewer.
Objectively these art works are finely constructed frames divided into sections whose scale and arrangement are decided upon visually, rather than mathematically.
division within the frame functions as index, or as a guiding principle. And there is intricacy with out being, or elaborate.
The restrained thoughtfulness of these works also refers back to the guiding principles, these is a felt response to what usually would be measured.
One is reminded of Black's expressions:
" The marble index of a mind. Voyaging through strange seas of thought, alone."
And this is not odd. It is a spatial index, which takes the viewer's mind on a journey, as ambiguously, space is the object, rather than the frame. The "strange seas" are the historical allusions to Japanese traditions, which are stimulated in the viewer's imagination, from their cultural memory, And this is reinforced in the private galley or public viewing space, as they both provided a constant against the random. And then viewed with either natural or artificial light, the shadow along with the charcoal dark frames suggest something extra-ordinary, something precise, but not precious, something clearly man-created yet not quite of this world. The "image" is formed in the viewer's imagination, as a percept .
The artworks are of a wide variety of scales. Some works also incorporate natural materials
Dean Hinton
(Artist / born in New Zealand, live in Shizuoka-city)
< 日本語訳>
Object, Image and Observer
見えるもの 見られるもの そして見えるものとして
ほぼこの10年間にわたって、山本晴康は伝統的な日本の技術について熟考を重ねながら、論理的洞察力を持って、高い職人技の組み合わせによる作品を作り続けてきた。
2000年頃から続けてきたこの仕事を彼は、『見えるもの 見られるもの そして見るものとして』と題している。英語で言い換えれば、見えるものは Object, 見られるものは Image, そして見るものは Observer-Vewer を表している。
客観的に、これらの作品は幾つかの部分に分割されたフレームによって素晴らしく構成されている。そのスケールや配置は数学的というよりも、視覚的に決定されている。
そのフレーム内の分割はある指標として、或いは在るもの(見られるもの)へ導くための原理的なものとして機能している。そして、それは複雑ではあるが、ある種の曖昧さがあり、入念に仕上げられている。
これらの作品の抑制された思慮深さもまた、あるもの(見られるもの)へ導くための原理を指し示している。そこには常に、慎重に考えられたものに対するある感じられた応答がある。
人はブレイクの言葉を思い出すだろう。
『その大理石の精神の指標 思考の未知の海を渡る航海、孤独にも』
そして、これは奇妙なことではない。それは、見るものの精神を旅へと誘う空間的な指標である。確信を持っては言えないが、この場合、空間はフレームであるというよりも もの(見えるもの)である。その未知の海は日本の伝統に対する歴史的な隠喩であり、文化的な記憶から鑑賞者(見るもの)のイマジネーションを活性化させるのである。そしてこのことは、無秩序に対して一定不変なものを用意する場である個人的なギャラリー或いは公の鑑賞の空間において強化される。そして、自然な光、或いは効果的に用いられたライトに照らされた時、大理石のような質感の暗いフレームによって生み出される影は、大袈裟なものではないが、何か驚くべきもの、何か明確なもの、まだこの世にないもので明らかに人間によって作られたものをあんじする。その心象(見られるもの)はある認識として鑑賞者(見るもの)のイマジネーションの中で形作られるのである。
彼の作品には多くのバリエーションがある。その幾つかは、自然の物資を取り入れてもいる。
ディーン・ヒントン
Dean Hinton
(美術家/ニュージーランド生、静岡市在住)
訳者:山本晴康